永正年間(1514~1527年)に田峯の菅沼氏により田峯城の支城として武節城が築かれました。夏焼城はこの武節城の【詰めの城】または【退守の城】として築かれました。武節城が落城した際、最後に立て籠もり再起を図るためのお城でした。お城の規模は削平地、2段で面積は約7アール、地名は夏焼町取手といいお城の名残をとどめています。
また、武節城は三河、信濃、美濃の国境であった為、他国の情勢をいち早く見方に知らせる必要がありました。【狼煙】により信濃の武田方の情勢を国境の上郷城から柏洞物見石を経由して野入城に繋ぎ、夏焼城から武節城へ知らせるという重要な役割を果たしていました。武節城は武田方にも織田方にも情報網の要として重要視されていたので、たびたび戦乱に巻き込まれましたが、戦うだけの戦力はなく武田になったり織田になったりを繰り返していました。天正18年(1590年)徳川家康が天下平定し江戸城に入る際、最後の城主、奥平信昌の関東移封とともに武節城が廃城となり夏焼城も役割を終えました。
太平洋戦争時代には標高889メートルの高台を利用して、アメリカ軍の戦闘機を見張る監視哨が設置されていました。当時の稲橋小学校の4年~6年の児童が勤労奉仕で瓦を背負って城ヶ山に登ったそうです。
(郷土の歴史研究家 安藤 泰 氏の著書【武節城考】【語り継ぎたい稲武の歴史】【村々に伝わるふるさとの歴史】から引用させていただきました。)
【追記】元監視哨員の方から終戦後、監視哨が必要なくなり解体した折り、当時の中学生が担いで廃材を下まで降ろしたと言うお話を頂きました。
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